概要:元禄赤穂事件

元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)に、江戸城中で播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が高家旗本の吉良上野介義央に対して遺恨有りとして殿中刃傷に及ぶが、討ち漏らして切腹処分となった。

その後、浅野の遺臣である大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47名(四十七士)が翌15年12月14日(1703年1月30日)に吉良屋敷に討ち入り、主君に代わって吉良上野介を討ち果たし、その首を泉岳寺の主君の墓前に捧げたのち、幕命により切腹した。

(元禄赤穂事件とは)この一連の事件を指す。

この事件は一般に「忠臣蔵」の名でも知られているが、この名称は本件を題材とした人形浄瑠璃と歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、およびそこから派生したさまざまな作品群の総称であり、本件自体を指す語ではない。

「元禄赤穂事件」(2009年11月2日 (月) 13:00 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』。

大石なごりの松

現在花岳寺の境内に「二代目大石なごりの松」があります。
ここでは「一代目」についてのエピソードをご紹介いたします。

今では、「一代目」は千手堂(休憩所)に切り株として記念保存されています。
昭和2年(1927年)に松くい虫のため2本あったうち2本とも同時に枯死しました。
播州の名松として天然記念物に指定され、木目で数えると310年の銘木でした。

さて、この「一代目」は、大石内蔵助良雄が、母松樹院がなくなられた時冥福を祈るために植えたものだったのです。
領地相生村の裏山から2本の松を移植したのが、元禄4年(1691年)3月14日。
これは浅野内匠頭長矩公の切腹の日よりちょうど10年前のことでした。

浅野家断絶、赤穂立ち退きの時、大石内蔵助が大石家先祖の墓を詣で、この松のもとで名残を惜しみ旅立ったことを指し、後の人々はこの松を「大石手植えの松」「大石なごりの松」と呼ぶようになりました。

元禄赤穂事件当時から存在する「一代目大石なごりの松」。
今では枯れ、切り株としての姿です。
しかしこの松は、大石内蔵助良雄の手で植えられ、元禄赤穂事件以後も、赤穂・花岳寺に参拝する人々を今日も迎え続けています。

義士宝物館

花岳寺の義士宝物館には、50余点を展示しています。
例えば、大石内蔵助から花岳寺へ送られた暇乞状(いとまごいじょう)は、討入りの前日12月13日付けで、家来に届けさせたものです。
討入り直前までの動向をくわしく述べてあります。

事件そのままが伝わる品々に、驚かれるかもしれません。
ぜひご来館下さい。